I Love 古墳

○No.7 今も役立つ黄門様の資料 2007年3号

 前回に、引き続きまして黄門様の古墳の発掘に関する話です。今日、黄門様が発掘して出土した遺物をみることは、できません。しかしながら、どのようなものが出土したのかは、かなり知ることができるのです。モノが無いのにどうしてわかるのでしょうか。それは伝承などのあやふやなものではありません。この調査の記録が残っているからです。歴史上の記録といってもいろいろなものがありますが、今回のものは、「湯津上村車塚御修理」と名づけられた発掘調査報告書です。現在でも、発掘調査を行ったのならば、出土した遺構や遺物を図面等で記録した報告書を作成するのが必定です。もちろん、黄門様が残した、報告書は現代の報告書の水準に満たないものではあります。しかしながら、記録に残された情報からどのような遺物が出土したかがわかるのです。先ほどから単に記録と書いていますが、これは文字だけの報告書ではありません。絵師によって出土した遺物がかなり正確に記録されているのです。例えば鏡を例に挙げます。
 古墳の発掘調査では鏡が出土することが多いのでが、皆さんも卑弥呼の鏡とも呼ばれる三角縁神獣鏡などはご存知でしょう。(卑弥呼の鏡とするには疑問があるのが実情ですが…。)実際には他に多数の種類の鏡の出土例があります。出土例や遠く中国で確認されている鏡多くの種類があり。それぞれ固有の名称が与えられています。専門の方はさらに細分したりもします。「湯津上村車塚御修理」に記された鏡の絵から、出土したのが何という鏡かということがわかるのです。他の出土遺物についても同様のことがいえます。つまり、記録が現在にも通じる正確なものであるということです。そして、こういった遺物が出土しているのだから、どういった時期の古墳で、どういった性格の被葬者であったのかを考えることができるのです。現在、両古墳を考える際の基礎的な資料は黄門様の資料の拠るところが大きいのです。未だにこの資料は非常に有効といえると思います。続きは次回。(O)



○No.6 発掘報告書 2007年2号

 前回に、引き続きまして黄門様の古墳の発掘に関する話です。今日、黄門様が発掘して出土した遺物を見ることはできません。しかしながら、どのようなものが出土したのかは、かなり知ることができるのです。モノが無いのにどうしてわかるのでしょうか。それは伝承などのあやふやなものではありません。この調査の記録が残っているからです。
 歴史上の記録といってもいろいろなものがありますが、今回のものは「湯津上村車塚御修理」と名付けられた発掘調査報告書です。
 現在でも、発掘調査を行ったのならば、出土した遺構や遺物を図面等で記録した報告書を作成するのが必定です。もちろん、黄門様が残した、報告書は現代の報告書の水準に満たないものではあります。しかしながら、記録に残された情報からどのような遺物が出土したかが分かるのです。先ほどから単に記録と書いていますが、これは文字だけの報告書ではありません。絵師によって出土した遺物がかなり正確に記録されているのです。
 例えば鏡を例に挙げます。
 古墳の発掘調査では鏡が出土することが多いのですが、皆さんも卑弥呼の鏡とも呼ばれる三角縁神獣鏡などはご存知でしょう(卑弥呼の鏡とするには疑問があるのが実情ですが…)。実際には他に多数の種類の鏡の出土例があります。出土例や遠く中国で確認されている鏡も多くの種類があり、それぞれ固有の名称が与えられています。専門の方はさらに細分したりもします。
 「湯津上村車塚御修理」に記された鏡の絵からは、出土したのが何という鏡かということが分かるのです。他の出土遺物についても同様のことがいえます。
 つまり、記録が現在にも通じる正確なものであるということです。そして、こういった遺物が出土しているのだから、どういった時期の古墳で、どういった性格の被葬者であったのかを考えることができるのです。
 現在、両古墳を考える際の基礎的な資料は黄門様の資料の拠るところが大きいのです。未だにこの資料は非常に有効といえると思います。(O)



○No.5 現在にも痕跡 2007年1号

 さんざん脱線しましたが、今回からまた、黄門様と古墳の話に戻そうと思います。那須国造碑に興味を持った黄門様。以前触れたように那須国造の碑は那須地方で活躍した韋提(いで)という人の業績を讃えた碑でした。またその内容から、黄門様はこの碑を墓誌と考えました。そしてこの碑文の解明のために、上侍塚、下侍塚両の古墳を発掘を行うこととしたのです。この両古墳は、国造碑の近辺に位置していただけではなく周辺に数多く存在する古墳と比較して大形の古墳であったことから当地域を治めた人物にふさわしいと考えたのでしょう。上侍塚古墳は墳長114m、下侍塚古墳は84m、ともに前方後方墳で、那須地域において最大規模の古墳でした。予断ではありますが、那須地域には6基の前方後方墳が存在します。だから?と思う方もいるかもしれませんが、全国的にみる特異なあり方といえます。これについては、前方後円墳と比較などから前方後方墳とは、何ぞやという問題、さらには、日本の古代国家形成、邪馬台国、果ては大陸といった様々な面でひろがってしまいますので割愛します。こういう一つの点から波紋のように広がるのが歴史のおもしろみではあるのですが…。
 さて、肝心の発掘ですが、元禄5年(1692年)の2月から発掘調査がはじまりました。以前触れましたように、発掘は、調査団ご一行の、重さんが現地で担当し、介さんと細かなやり取りをして行ったようです。黄門様は、その上で介さんに指示をだすということだったようです。厳密にいえば、黄門さまは、発掘現場に一度もこなかったので、日本で初めて発掘したというイメージとは異なるかもしれませんが、これまでの話を読んでいただければ、黄門さまの主導のもとで成されたことはお分かりいただけると思います。発掘調査は、前方後方墳の後方部頂中央で行われたようで、現在も、下侍塚古墳の墳頂部の一部分は当時の発掘と思われる痕跡がみられます。(やや凹んでいるかなという程度ですが)注目すべきは、発掘に際して、埋葬された場所を的確に発掘していることです。当時から、古墳の被葬者は古墳の何処に葬られたのかを知っていたのでしょう。そのようなことは普通に考えれば想像がつくとお思いの方もおられるでしょう。その通りです。一方で、日本全国には、盗掘された古墳も数多くあります。そして、盗掘の痕跡は、的確に埋葬された地点を掘っています。そういうことをふまえると、半ば常識的だったという考えもありでしょう。話をもとにもどしまして、発掘調査では、鏡や石釧、管玉、土器などが、両古墳から出土したようです。ようですと書いたのには、わけがあります。なぜならば、現在、我々はこの発掘で出土した遺物をみることが出来ないからです。では出土した鏡などの遺物はどこへ行ってしまったのでしょうか。(O)



○No.4 実は僧侶の介さん 2006年12月号掲載

 先月は長い上に硬い内容になってしまいましたので、今月は軽〜い内容にします。一息ついてください(笑)。単に今月は、書いている本人が諸事情で忙しいだけなのですが…。
 以前にも書きましたが、黄門様の全国行脚は架空のお話です。遠出もしたようですが伊豆くらいまでだったとか…。ですが、介さんこと佐々介三郎宗淳は実際に全国行脚をしています。黄門様の命を受けて大日本史編さんのための資料を集めるためなど東奔西走しています。また、介さんは元は臨済宗の僧侶でした。京都の妙心寺で修行をしていたそうです。なぜ俗世に舞い戻ったかについては長くなるので書きませんが調べてみるとおもしろいかもしれませんよ。時代劇では頼りになる用心棒ですが、実際は元お坊さんで、学者さんだったのです。予断ではありますが、介さんは戦国時代の武将、佐々成政の傍流の子孫であるとも言われています。人に歴史ありですね。時代劇の介さんとは違った魅力があるように思います。
 ところで、水戸黄門といえば、風車の弥七を覚えている方も多いでしょう。ちなみに、名前は異なりますがモデルとなった人物は実在するのです。小八兵衛という人物で、元は盗賊の頭領ようで、黄門様のために働いた忍だったそうです。ところで、八兵衛といえばうっかり≠フアノ人がうかんでしまうのは私だけでしょうか…。またまた脱線してしまいましたので、次回から、黄門さまの古墳発掘の話に戻したいと思います。(O)



○No.3 黄門様が掘った訳 2006年11月号掲載

 今回の内容は硬いです。脱線しますが読んでみてください。黄門様の古墳の発掘は、那須国造碑が発見され、その内容に黄門様が興味を示したことによります。この碑文を記録し調べたのが大金重貞(以下、重さん)でした。そして、重さんから伝えられ、黄門様が知ることになりました。碑文は「永晶元年巳丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造…」というような漢文です。飛鳥浄御原大宮(当時の朝廷)、国造(当時の日本全国にあった国を統治する官職)など日本史を勉強した人ならば一度は聞いたことがある言葉ではないでしょうか。
 次にその碑文の内容は「7世紀末頃に那須地方で活躍した韋提(いで)という人の業績を讃えたもので、那須国造という官職にあった韋提は、飛鳥にあった当時の朝廷から評督という官職を新たに授かり○○年の午前8時頃に亡くなりました」ということです。(亡くなった時間も記されているのですね〜。)
 この碑から我々がわかるのは「この土地にはすごくえらい人がいたんだ〜」ということだけではありません。また、国家行政、地方政治の改革なんてこともわかるのです。碑を造った人は前者を意図していますがそんなことはおかまいなしです。(笑)
 先ほど少し触れましたが、那須国造の韋提は、“国造”の官職から“評督”とう郡司の官職を与えられたことがわかります。つまり官職が国を統治する“国造”から郡を統治する“評督”と変わったわけです。当時は、各国の中に郡が置かれていました(県の中に市町村があるというイメージでいいと思います)。つまり知事から市長へ…と格下げの印象を持った方はいませんか? 実は少し違うのです。彼の統治した地域が狭くなったわけでも左遷されたわけでもありません。ただ、那須国は那須郡になり下毛野国(後の下野国)に組み込まれたということです。最近の市町村合併と似ているような…。吸収合併? やっぱりマイナスイメージですかね〜。冗談はさておき、現在も、当時、地方再編も中央のご意思だったわけです。
 『大日本史』という歴史書を編纂していた黄門様はこの碑は重要だと判断したのでしょう。もう一点おもしろいことがあります。年号です。現在は平成18年ですよね。日本の年号は『日本書記』によれば645年の大化からとされています(もっともそれ以前の年号が存在することも知られてはいますが…)。この碑には永晶元年(689年)という年号が記されているのですが、この永晶という年号は日本の年号ではないのです。中国の年号なのです。どうして中国の年号なのでしょうか。当時、日本の年号がどれだけ浸透していたのかというところもありますが、少なくともこのような知識をもった人が、中央から遠く離れた那須にいたというだけでも興味深いと私は思うのです。
 余談ではありますが、永晶元年は唐の時代、中国史上唯一の女帝とされる則天武后の時代です(唐は彼女の統治した期間中は周という名称)。日本は持統天皇の時代です。百人一首の「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天香具山」を詠んだ方といえばわかる方も多いのではないでしょうか。どちらも女帝さんでした。なかなか興味深いですね。ちなみ黄門様の本名、光圀の「圀」という漢字は、則天武后の時代に作られた漢字、則天文字なのです。案外、このことも黄門様に興味をもたせた要因のひとつなのかものしれませんね。
 かなり話を広げてしまいましたので次回は少し?元にもどそうと思います。(O)



○No.2 発掘調査団ご一行 2006年10月号掲載

 日本で初めて古墳を発掘調査をした黄門様。
 前回、書きましたように、黄門様の他に、佐々介三郎宗淳、大金重貞の両名が下侍、上侍塚両古墳の発掘調査におおきく関わっています。そして、佐々介三郎宗淳は皆さんご存知の“介さん”であります。ちなみにもう片方なのアノ方は今のとこと登場しない予定です。
 古墳の発掘は1691年の2月から行われました。実際の現場で発掘を行ったのは大金重貞(以下、勝手に重さんと呼称します)で、実際のところ黄門さんも、介さんも発掘現場に立つことはありませんでした。
 では、黄門さまと介さんが何をしたのかいいますと、まず黄門様が発掘等の命を介さんに命じます。介さんは、その命を受けて、発掘現場を指揮する重さんに指示を出します。重さんは、その命を受けて発掘を行うという形となります。一緒には旅はしていませんが、3人の間では細かな内容のやり取りがなされていたようです(当時はほとんどが手紙でしたが…)。つまり、黄門様、介さん、重さんは発掘調査団のご一行であったわけです。そして黄門様は調査団のトップであり、調査は黄門様のご意向に沿って行われたわけです。そして、この調査が後世においても評価される秀でた内容であったため最初の発掘調査と呼ばれているのです。
 印籠をだしたり、大立ち回り、世直しなどはしませんでしたが、古墳は発掘した黄門様ご一行。では、その内容は?動機は?。(O)
上侍塚古墳



○No.1 日本で初めての古墳調査 2006年創刊号掲載

 水戸の黄門様といえば、江戸時代前期に実在した水戸藩の藩主、徳川光圀の別称です。時代劇では日本各地で大活躍、老若男女問わず知らぬ人はいない旅のご隠居です。このような活躍は当然、史実ではありませんが、数々の武勇伝を残した人物であることは確かです。有名な話では日本で初めてラーメンを食し、他にもチーズ、餃子、靴下…。様々な逸話の多い黄門様です。
 さて、ここからが本題ですが、実は黄門様、日本で初めて古墳の発掘調査を行った人でもあります。現在の栃木県大田原市(合併前は湯津上村)の下侍塚、上侍塚の2つの古墳の調査を行っています。この調査には黄門様の他に、佐々介三郎宗淳(ささすけさぶろうそうじゅん)、大金重貞(おおがねしげさだ)の二人が大きく関わります。 ところで、佐々介と聞いてもしやと思った方はいませんか?…ささすけ…すけ。どこかで聞いた名前じゃありませんか?。そう皆さんもお馴染みのあの方も登場するんです。(O)
下侍塚古墳


top / wanted / mail / link

Polka.に掲載の記事・写真などの一切の無断転載を禁じます。
Copyright 2007 Polka dot. All rights reserved. No reproduction or republication without written permission.